医療経済学者がキャンサーナビゲーターになった(1)―「アジアの疾病」



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大切なことを誰かに伝えたいとき、メッセージをきちんと伝えるにはどうしたらよいか、頭を悩ませること、ありませんか。

仮に、何も手を打たなければ600人を死に至らしめる新しい病気が発生し、2種類の治療法が考案されたとします。それぞれの治療法の効果について医師から次のような説明があったら、あなたはどちらを選択しますか。
2015.6.25GHCをウォッチ アキさん①
心理学者のエイモス・トベルスキーと行動経済学者のダニエル・カーネマンらによる研究では、治療法Aを選んだ人が72%。これに対して、治療法Bが28%という結果でした(“The Framing of Decisions and the Psychology of Choice,” Science, 1981)。

それでは、医師の説明が次のような内容だったらどうでしょう。
2015.6.25GHCをウォッチ アキさん②
この研究では、治療法Cを選んだ人が22%、治療法Dを選んだ人が78%という結果でした。しかしこれら4つの治療法の内容を冷静に確認すると、治療法Aと治療法C、治療法Bと治療法Dは、実はそれぞれ同じことを言っているのです。

治療法Aでは、600人のうち助けることができるのは200人ですから、裏を返せば400人は死亡する(治療法C)ということです。人間の意思決定が合理的なら、治療法Aを選んだ人は、これと同じことを言っている治療法Cを選択しそうですが、実際はそうならならず、回答がぶれるケースがたくさんありました。なぜでしょうか。

医療経済学者で、米国グローバル財団理事長のアキよしかわは、「治療法Aの説明では、『200人が助かる』とポジティブな表現を前面に出している。これに対して治療法Cは『400人が死亡する』と、ネガティブなフレームワークになっている。この違いが人間の感情を変える。実は同じことを言っていても、伝え方によって聞き手は全く異なるとらえ方をするということなんだ」と解説します。

■「若い患者たちに学ぶ喜び伝えたい」

トベルスキーとカーネマンの治療法AからDの選択は「アジアの疾病」と呼ばれていて、米ハワイ州のクイーンズメディカルセンターが実施した「キャンサーナビゲーター」の研修プログラムで取り上げられました。アキはこのプログラムを5月下旬から6月上旬にかけて受講し、無事に修了しました。

2015.7.28GHCをウォッチ アキさん③ 米国のがん拠点病院にはキャンサーナビゲーターの配置が求められていて、現在はハワイ州だけで200人ほど、正確な数字は分かりませんが、全米では少なくとも1000人以上が活躍していると言われます。これに対してキャンサーナビゲーターになった日本人は、アキが初めてだと思われます。

実はアキ自身、大腸がんと昨年に診断され、日本で手術を受けました。米国に住む家族の希望もあり、計12回にわたる化学療法はこの7月まで、日本とハワイを行き来してクイーンズメディカルセンターで受けてきました。

「決して楽しい経験ではないが、がんになった以上はその経験を生かしたいと考え、化学療法の合間にキャンサーナビゲーターの研修を受けることにした」(アキ)そうです。

「僕はこれまでにいろいろなことを経験して十分なキャリアを積み、とても充実した幸せな人生を歩んできた。だけど、チャレンジの機会を得ずにキャリアを積めていない、これからという若者ががんになったらとても大変だ。キャンサーナビゲーターとして若いがん患者たちを支えて、諦めずにチャレンジする大切さと、学ぶことの喜びを伝えたい」とアキは意気込んでいます。

がん患者と医療機関をつないだり、患者の家族をサポートしたり、キャンサーナビゲーターとしての業務は多様で過酷です。十分な治療を受けるだけのお金がない患者をどう支えるか、たくさんの悲劇を目の当たりにして傷付いた自分自身の心をどう癒すか―。養成プログラムでは、キャンサーナビゲーターに不可欠な知識と心構えを学びました。

中でもアキが大きな関心を抱いたのが、がん患者へのメッセージの伝え方です。

冒頭の「アジアの疾病」がその1つ。がんの治療法を患者に説明する場面にこれを置き換えたらどうでしょうか。「がんの患者はただでさえいろいろな情報に惑わされて、いつも不安を感じている。医師の伝え方によって、患者の意思決定は簡単にぶれてしまう」とアキは話します。

■意思決定に2つのルート

大切なことを誰かに伝えたいとき、どうすればメッセージをきちんと伝えられるか―。

米国のバレリー・レイナらの研究で、いろいろなことが分かってきました。わたしたちが意思決定をするまでには、2つのルートで自分の記憶をたどり、それを判断基準にすると言われています。1つ目は「逐語的痕跡」(Verbatim Trace)と呼ばれるもので、客観的な数字やデータにまつわる記憶の痕跡をたどり、自分にとって何が望ましいのかを判断するルートです。

もう1つは「要旨的痕跡」(Gist Trace)と呼ばれるもので、記憶や知識の断片を集めて1つのパーツにつくり上げ、判断の拠り所にします。経験則やひらめきによって、いわば本能的・直感的に物事を選択するルートです。

人は年齢を重ねるにつれてGist Traceへの依存度が高くなると言われています。一般的に、経験豊富な医師はこのルートで記憶をたどって正確な判断を素早く下すことができますが、若い研修医は逐語的な情報をたどるため、スピーディーな対応には限界があるとされます(Reyna, “A Theory of Medical Decision Making and Health: Fuzzy Trace Theory” Med Decis Making 2008)。

年齢だけでなく、たくさんの情報を把握しなければならない場面でもわたしたちはGist Traceに頼ろうとします。物事の判断を下す上で、どちらのルートも大切な役割を果たしますが、どちらをたどるかはケースバイケースで、これが判断の「ぶれ」につながります。これらは、詳しい数字やデータを正確に伝えるだけでは、本当に伝えたいことを患者に伝えられない可能性があることを意味しています。さらに、「伝え方」や表現方法によって患者の受け止め方が変わってしまい、本当に伝えたいことがやはりうまく伝わらないケースも少なくありません。

「つまり、誰かに物事を伝えるときには、何を伝えるかだけでなく、それをどう伝えるかがとても大切なんだ」とアキは言います。

■米国の情報発信は次元が違う

インターネットを使って何かを発信する際、こうした概念を取り入れようという動きが米国では既に広がり始めていて、先進的な医療施設では、情報発信のフォーマットにも反映させるケースがあるそうです。これに対して日本ではどうでしょうか。

「米国では、どうしたら物事の本質を伝えられて、適切な判断につなげられるかを真剣に考えている。だけど日本では、インターネットでとにかく情報を公開しようという段階で、公開すらされない情報もある。例えばDPCのデータは一部しか公開されておらず、しかも誰もが分かる形になっているとは到底言えない。残念だけど米国とは次元が違うと痛感した」(アキ)。

治療内容を正しく伝えることは、適切に意思決定できるよう患者を支援する上でとても大切な課題です。それだけにアキは、日本の医療関係者たちの奮起に期待を寄せています。

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